まどか☆マギカは本当にレイプ・ファンタジーか?

『魔法少女まどか☆マギカ』について―機能不全のインターフェイス ― ジビインコウ

 結論から言えば、レイプ・ファンタジー的な読みをする事もできるけれど、それが本質的な構造なのか?というとちょっと違うのではないかとも思えます。感覚的な違和感があったのですが、そのあたりを何とか言語化してみましょうか。

◆空気系について

 空気系という括りについては広く共有されている概念ではないように思いますが、ここでは文脈上、「ハーレム系ラブコメ等の、男性視聴者や読者の女性キャラクターに対する所有欲を満たす構造から、視聴者や読者が自己投影するべき男性主人公を除外することで、欲望する男性のまなざしを作品の外部に置いた、主に女性キャラクターのみによる日常生活を描くジャンル」といった内容が想定されているように思います。ここでは日常系、空気系の代表的な作品と見られている『けいおん!』を例に挙げます。

 『けいおん!』に於いて、「唯は俺の嫁」といった男性視聴者の所有欲をダイレクトに反映したと思われる感想はあちこちで見られていますし、ハーレム系の延長としてキャラ萌えを主眼とした楽しみ方、「空気系」で想定されている読み方をしている層は確実に存在しますね。
 一方で、『けいおん!』では「自分の青春時代を懐かしむ」もしくは「自分には無かった理想的な青春を疑似体験する」といった青春物語として受容していた層もまた存在します。こうした感想もまたあちこちで見かけますし、僕自身そうした見方に寄っていたと思います。

 つまり「空気系」という形式は主体となるべき男性を外部に出した事で、より洗練された形で所有欲を満たす形式になったと同時に、「女性キャラクターに対する萌え」という切り口以外にも対応できる解釈の振れ幅があるのではないか、と思います。『けいおん!』においては、その幅に「青春物語」が代入されたのだろうと。
 よって、「空気系を受けた男性主体の外部化」という考え方は、「キャラ萌え、男性の女性に対する所有欲」という読み方以外の可能性をはらむだろうということです。

◆レイプ・ファンタジーについて

 次にレイプ・ファンタジーという概念についてですが、こちらは「男性の側を持ち上げることなく合法的に男性優位の関係を結ぶ為に、女性キャラクターの立場を引き下げ、それを優しい男性が救うという形式を取る恋愛幻想」といったところでしょうか。その為の手段として女性キャラクターに過去のトラウマや弱々しく問題のある性格付けをしたり、トラブルに巻き込まれた被害者に仕立てているわけですね。男性側にリスクを与えずに利益だけを与える無責任な構造だ、という観点から批判されているようです。『けいおん!』と同じ京アニがアニメ化した『CLANNAD』あたりが真っ先に浮かびました。

 このレイプ・ファンタジーという形式は、単純な恋愛ファンタジーに比べて明確なパワーバランスの不平等があり、その関係性を築く為の「男性の救いの手」が必須である点が特徴です。
 すると、ここで主体となる男性を外部に置いてしまった場合、男性は「救いの手」を差し伸べる事ができなくなり、明確な男性優位の構造を築くことができません。まさしくリンク先のエントリーで書かれていた「君らの干渉できないところで彼女たちはがんがん災難にあわせますよ」という状態になってしまいます。

 よって、「外部の安全な場所から内部の悲惨な彼女たちを眺め、消費する」という見せ物小屋の構造は確かに存在するのですが、これをレイプ・ファンタジー的に「自らがリスクを負うことなく、無責任に女性を所有しようとする欲望」へと接続するには、まさしく「インターフェイスが機能不全」なのではないかと。
 まどかに対するほむら、さやかに対する杏子、といったように、別の誰かを助けようと奮闘するキャラクターに自らを仮託してハッピーエンドを夢想するような百合妄想など、二次創作的な妄想で積極的に補完することにより、一部でこうしたレイプ・ファンタジー的な受容をしているようにも見えますが、先ほど書いた空気系の例と同様、幅のある読み方の1つに過ぎないように思います。

◆まとめ

 キャラクターたちが平和な日常へのアクセスを絶たれ、危険な外部に曝され続けていること、また視聴者が安全地帯からそれを眺めていることは指摘の通りです。ただ、この構造は先に書いたように、レイプ・ファンタジーとしては不完全なものに感じられます。むしろ、外部からは手の届かないものであることが浮き彫りになっているようにも見えますし。
 ここで糾弾されているのが「欲望する視聴者のまなざし」ではないか、という主張は概ね同意なのですが、そこで問題視されているのはレイプ・ファンタジー的な関係性ではなく、あくまで「魔法少女、戦闘美少女」という形式に過剰な幻想を抱く視聴者のそれではないか、というのが僕の主張ですね。ちなみに『まどか☆マギカ』を「決断主義的バトルロワイヤル」とする解釈も個人的には違うと思っています。